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「マリアの被昇天はわたしたちの希望のみなもと」

2019年08月15日

聖母の被昇天

2019年8月15日、本郷教会

第一朗読 ヨハネの黙示録11.19a、12.1-6、10ab
第二朗読 使徒パウロのコリントの信徒への手紙 一 15.20-27a
福音朗読 ルカによる福音書1.39-56

福音の本文

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

説教

皆さん今日は8月15日です。わたしたちカトリック信者にとっても日本国民、あるいは世界中の人々にとっても記念すべき日です。

8月15日は聖母マリアの被昇天を祝う日であり、また、第二次世界大戦、あるいはアジア太平洋戦争が終わり、平和が回復された日、日本にとっては敗戦を受け入れた日でもございます。
8月6日から15日はカトリック平和旬間できょうはその締めくくりの日となります。
マリア様のこと、平和のこと、わたしたちの日々の霊的生活にとって非常に意味深い日であります。わたしにとっては、この本郷教会での初めて聖母の被昇天の日です。

聖母の被昇天という教えは、1950年に、時の教皇 ピオ12世が、正式にカトリック教会の教えとして、すべての人に向かって宣言して教義として定めた教えでございます。
すべての人は死ななければなりません。遺体は腐敗するのです。葬儀とは、遺体への尊敬を込めた葬送の儀礼と申しましょうか、聖母の場合は、そのご遺体は腐敗を免れて天に上げられたとわたしたちは信じます。それは聖母が死後直ぐに主イエスの復活の体の状態に上がられたということを意味しています。

きょうの第二朗読で使徒パウロが教えていますが、わたしたちも主イエス・キリストのご復活に与り、栄光の体に変えていただけるという希望を与えられているのです。わたしたちの生身の身体は朽ち果てても、主の復活の体と同じような復活の体、朽ちることのない永遠の命を表し伝える体にしていただけるのです。
本日の第二朗読は述べています。
一人の人によってこの世に死が入ってきたが、一人の人によってすべての人にいのちが及ぶことになった。このいのちとは、わたしたちすべてのものに与えられる復活のいのちであります。

ところで、きょうは第一朗読に注意を留めていただきたい。ヨハネの黙示録を読んで感じたことを申し上げたい。
身ごもった女と竜の壮絶な戦いが述べられています。
女とはわたしたち神の民を指しており、竜とはサタン、悪魔、悪の力を意味しているといいます。
本郷教会では昨年7月から火曜の晩に教皇文書の「読書会」をしてきました。無事、一年が経過しましたが、先日、三番目の文書『喜びに喜べ』を終了しました。
ここで教皇フランシスコが強調している点は、キリスト者の日々は悪とのたたかいである、ということです。悪とはサタンであり、人間を悪へ誘う霊的な存在です。
主の祈りの中で「悪からお救いださい」と祈っておりますが、それは、悪魔の誘惑に陥らないように守ってください、という意味であります。
悪との戦いとは、悪霊の誘惑を退け、聖霊の導きに従うことに他なりません。
それは思い上がらないように、高ぶらないようにとの聖霊の導きに従うことであります。
マリアの賛歌、マグニフィカトは述べています。

 主はその腕で力を振るい、

 思い上がる者を打ち散らし、

 権力ある者をその座から引き降ろし、

 身分の低い者を高く上げ、

 飢えた人を良い物で満たし、

 富める者を空腹のまま追い返されます。

 その僕イスラエルを受け入れて、

 憐れみをお忘れになりません、

それは権力への欲求、名誉、所有への欲望を放棄し、貧しい人々へ仕えることを意味しています。
主イエスと聖母の生き方に倣って、謙遜、柔和に生きることこそ、平和を実現するために使徒として生きることなのです。
日々そのような歩みを続けることが出来ますよう、聖霊の導きを祈りましょう。
アーメン。