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イエスの福音への招き 「負い目をお許しください」

2019年07月28日

年間第17主日C年

2019年7月28日、本郷教会
第一朗読 創世記 18:20-32
第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 2:12-14
福音朗読 ルカ11:1-13

説教

今、読みましたルカによる福音は、わたしたちが毎日唱える「主の祈り」を伝えています。
「主の祈り」は福音の要約と言われています。
わたしたちにとって非常に大切な祈りであります。
ある人が、「主の祈り」をほかの人たちと一緒に唱えましたが、途中で続けることができなかったそうです。
その途中の箇所というのは、罪の赦しについての箇所です。
わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも人を赦します。
この言葉を口にすることができない。その人の気持ちがわかるような気がいたします。

わたしたちは天の父に罪の赦しを願っています。
きょうのルカの福音によれば、「罪を赦してください」と願い、 さらに、「自分に負い目のある人を皆赦します。」と言っています。
罪という言葉は、わたしたちには、なかなかわかりにくい、と申しますか、なじみにくい、そういう響きがあるのではないだろうか。
犯罪といえばすぐにわかりますが、罪と犯罪はもちろん違います。
「罪」というのは何でしょうか。あまり罪のことばかり聞いて、だんだん嫌になってしまうという気持ちも出てくるかもしれない…。

「負い目」という言葉もあります。「負い目」、あるいは「負債」とも訳しています。「負い目」というほうがわたしたちの気持ちには通じやすい。
わたしたちは負い目をもっている。あるいは、別の言葉でどう言うかと、探してみると、
わたしたちが毎日使っているであろう「おかげさま」という言葉ですが、これは抵抗なく「おかげさまでお元気ですか」などのように「おかげさまで」ということばを使っているわけです。
わたしたちは、おかげさまで毎日生きている、生活している、いろいろな方々の助け、理解、支えなどによって、そのおかげで今日も過ごすことができた、心から感謝いたします。
この「おかげ」ということを、わたしたちは、子どものときから教えられているし、いろいろな場面において、おかげでそうすることができている、と思っています。

「負い目」というと、少し意味合いが違ってきますが、まぁ、こちらのほうも、いろいろな人に負い目がある、ということは理解できる。
マタイの福音書18章に、多大な借金を赦していただいた男が、自分に借金している友達の借金を赦すことができなかった、という話が出ております。
1万タラントンとかいう ものすごい額の負債を持っていた男、その男が、全部帳消しにしていただいて大喜びのはずですが、自分に対して100デナリという、1デナリが一日分の賃金といわれますので、まぁ、そういう額を、赦すことができなかったという話であって、その話の結論は、
「あなたがたが兄弟を心から赦さないならば、天の父もあなたがたに同じようにするだろう」という言葉で結ばれている。
これは考えてみるとかなり恐ろしいことである。

「主の祈り」を最後まで祈ることができなかった人も、そのことが心に兆して 自分は赦せない、赦していないと思ったのでしょう。赦せないという気持ちも、だいたいの人は経験したと思います。
赦しがたい、何年も何年もその悔しい思いとか、嫌な思いが残っている、そういう人生の体験がある、そうでありながら、「わたしの罪をお赦しください」とは言い難い。「わたしも人を赦します」と言い難い。
この「赦します」、と言っていますが、この「主の祈り」の原文は、主に、マタイの福音からとられている。きょうはルカの福音ですが、「赦します」という訳もあるが、「赦しました」、となっている場合もあります。
これは、悩んでしまう。どちらが正しいのだろう…。どちらとも言えるようであります。

「赦しました、それでは、お赦しください」という場合と、「赦します」という場合。
「赦します」というと、「今、現在、赦します」なのか、「これから赦す」のか、曖昧ですけども、「赦してもらう」ということと、「赦す」ということの、このつながりが大切であります。
「赦してください」とお願いするならば、「自分も赦す」ということがあるはずだ、と言っています。

わたしたちは、本当におかげさまでいろいろなことをすることができるし、わたしたちのすることなすことは、本当に足りないことだらけ、人に満足していただけるようなことはなかなかできない。
本当にふつつかな僕(しもべ)であります、という気持ちが本来のものでありましょう。
そして、信仰しているわたしたち、天の父を信じているわたしたちは、自分がいただいているものは、すべて天の父からいただいたものであると思う。
自分が自分で獲得したものはないですね。すべていただいたものである。いただいたもの、だから、下さった方に応えなければならない。でも、応えようがないくらい多くの恩をこうむっている。
そうだ、われわれは「恩」という言葉のほうがわかりやすいのかもしれないけれども、「おかげ」とか「恩」とかいう言葉。
「罪」というと、犯罪を連想してしまうのですけれども、もちろん、犯罪に通じる罪もありますけれども、おかげを蒙っているという自覚を持つことが大切であると思うのであります。

「わたしたちの罪を赦してください。負い目を赦してください。負い目を破棄してください。」
第二朗読のすごい表現、借金の証書を全部破棄して、十字架に釘付けにしてくれたという、釘付けっていう、もう全部、何というのか、チャラというのか、ちょっと、全部、帳消しにしてくださったナザレのイエスは、十字架にわたしたちの負債を釘付けにしてくださった。
その恩を、わたしたちは、日々深く思うべきであります。
そして、その恩というのは、いろいろな人を通してわたしたちに示され与えられている。
ですから、わたしたちも、ほかの人に、神様からいただいた恵みをお伝えするようにいたしましょう。