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イエスの福音への招き 「ローマ帝国とキリスト教」

2019年06月30日

聖ペトロ・パウロ使徒 祭日

2019年6月30日、本郷教会
第一朗読 使徒言行録 12:1-11
第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙  二テモテ4:6-8、17-18
福音朗読 マタイ 16:13-19

説教

皆さん、わたしたちは本日、本郷教会として、聖ペトロ、聖パウロ両使徒のお祝いをいたします。
この二人の使徒は、わたしたちキリスト教会の二人の重要な、偉大な礎となった方々であり、ともに紀元60年代半ば、ローマで殉教いたしました。ミサの叙唱で司祭が唱えることばの中に、二人の使徒の果たした役割が、簡潔、正確に表現されております。
ペトロは使徒の頭として信仰を宣言し、イスラエルの小さな群れから初代教会をつくり、パウロはキリストの神秘を解き明かし、異邦の民の使徒となりました。
使徒ペトロ、使徒パウロも共にその信仰をあかしして命を献げ、殉教者となったのであります。
殉教とは、自分が信じる信仰の真理、あるいは、道徳を守るために命を献げる行為を意味しております。そもそも「殉教」という言葉は、「証し」を意味し、「殉教者」とは「信仰の証人」でありました。
ナザレのイエスという人によって始まった、小さな、イエスを信じる人々の群れは次第に大きな集団となり、そしてローマ帝国の中で大きな存在となっていったのであります。そのキリスト教徒の存在は、時の国家権力にとって無視できない大きな勢力となりましたので、ローマ帝国はキリスト教を公認し、且つ、そのあとローマ帝国の宗教、国教とさえするに至りました。

このローマ帝国での国教化という時点が、わたしたちの教会の大きな分かれ目になったのではないかという考え方があります。どういう意味かと申しますと、それまでは、キリスト教徒は、反体制、時の国家権力に迫害され、或いは、否定されていた存在ですが、今度は逆に体制の中に組み込まれ、小さな存在から大きな存在へと、繰り上げられたのであります。そこで新しい問題が生じた。小さな弱い存在であったときには、人々の前でナザレのイエスという、処刑された一人の男を証しする人々の群れでありました。多くの殉教者が生まれました。しかし、国家から公認され、そして国家を支える宗教となった時から、キリスト教は、いわば体制を支える宗教、そして小さな存在から大きな存在へと変えられたのであります。

今日の福音で、イエスはペトロに言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」キリスト教徒は迫害されましたが、その迫害にめげず、どんどんと仲間を増やすことはできた。そのときの状況ではこの「陰府(よみ)の力」というのは何を意味していたのか。ま、おそらく外からキリスト教徒を迫害する、或いは虐待する悪の力を表していたかもしれない。しかし、キリスト教が体制の宗教となった時点から、「陰府(よみ)の力」というのは、外にある悪の力だけではなく、むしろ“教会の中にある悪の力”となっていったのではないだろうか。わたしたちは、小さく弱い時には、その弱さの中で神様のめぐみに感謝して生きておりますが、大きくなり力を持つと、今度はその力、その大きさに頼むようになり、次第、次第にイエス・キリストの生き方からそれていってしまうという問題があるのであります。

わたしたちの教会はそのことを自覚し、絶えず刷新と改革をはかってきました。何度も公会議を開きました。最後に開かれた公会議は第二バチカン公会議であります。日本の教会、小さな群れですけれども、公会議の開催と歴代の教皇の指導を受けて、「福音宣教推進全国会議」という刷新のための会議を開きました。1987年、もうだいぶ昔になってしまいました。それでもなお、わたしたちの教会は、内部にさまざまな問題を抱えております。聖職者の性虐待、性暴力の問題など、すでに世界中が知るに至っているのであります。

わたしたちの教皇フランシスコは、この教会の刷新、そして改革のために非常なる努力をしておられます。わたしたちもこの教皇様のご意向に心から賛成し、協力を惜しまないようにしたいと思います。

最後にひとこと、わたくしが感じておりますことを付け加えます。
教皇様は、「フランシスコ」という名前をとられたんですね。このフランシスコの精神に従うようにと努力され、そして、すすめているのではないかと思います。
フランシスコの精神は、3つの事柄からの解放を目指すことだと言われています。
3つのことというのは、英語で恐縮ですけれど、P で始まる3つでありまして、まず第一は
POWER、「権力」ですね、二番目は PRESTIGE、 これは「名声」という意味ですね。名声。
三番目は POSSESSION これは「所有」という意味です。この3つから遠ざかることがイエス・キリストの生き方に倣うことだと言われています。自ら顧みるに、とてもこの目標から遠い自分をみいだすのであります。皆様のご指導を得て、そのようになりたいと考えております。