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[コラム]イエスの福音への招き 「三つの誘惑」

2019年03月13日

四旬節第1主日・洗礼志願式の説教 2019年3月10日 本郷教会

第一朗読 申命記26・4-10
第二朗読 ローマ10・8-13
福音朗読 ルカ4・1-13

きょうは四旬節第一主日、説教のあと、Aさんの洗礼志願式を行います。
四旬節第一主日のことしの福音朗読はルカの4章であります。
イエスは聖霊に満たされ、霊によって荒れ野に導かれ、40日間にわたり悪魔の誘惑を受けられました。この物語から四旬節という典礼の季節が生まれました。
ところで、この四旬節の起源の物語を聞いてふと思うことがあります。それは、この物語に、聖霊と悪霊の両方が出て来るのはどういうことだろうか、ということです。
イエスは、荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けましたが、すべての誘惑に打ち克たれました。これは確かにイエスの物語です。しかし、実はむしろ、わたしたちひとり一人の受ける誘惑について、わたしたちに向けて語られている物語なのです。
わたしたちは信仰の恵みを受け、聖霊の賜物を受けています。しかし、依然として同時に悪霊の誘惑にさらされている者でもあります。わたしたちもイエスに倣い、聖霊の助けによって悪魔の誘惑に打ち克つように、と、きょうの福音は励ましています。
イエスは三つの誘惑を受けました。
一つ目の誘惑は、「石をパンに変えるように」という誘惑でした。それは、自分が持っている力を地上での自分の成功のために、現世的な成功のために用いたらどうか、という誘惑であります。イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と答えてこの誘惑を退けました。
二つ目の誘惑は、地上の権力と繁栄を自分のものとしたらどうか」という誘惑でした。それは、人を支配し、人を思うように動かし、栄誉と名声を自分のものにしたい、という欲望への誘惑です。この誘惑に対してイエスは、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」という申命記の言葉をもって、断固、悪魔の誘惑を退けたのです。わたしたちは日々、主の祈りを唱え、「自分の思いではなく、神の思いが行われますように」と祈っています。しかし、誰かが自分の思いに反することを言ったりしたら、不快になり、怒りを覚えたり、失望したり、落ち込んだりすることが少なくはありません。自己の権力、名声、評判への欲望は実に根強いものです。「栄光は父と子と聖霊に」と唱えながら、実は「自分の栄光」を求めている部分が心の中に在ることを認めなければならないと思います。その欲望に悪魔は付け込んできます。
三つめの誘惑は、「神である主を試す」という誘惑です。「神である主を試す」とはどういうことでしょうか。それは本当に主がともにいてくださり、守ってくださるだろうか、疑いを抱いて、不信仰に陥る、ということです。かつて、イスラエルの民はモーセに率いられて、荒れ野でさまよい、水も食べ物もない状態に耐えかねて「果たして、主は我々の間におられるだろうか」と言って、モーセと争い、主を試みるに至ったのでした。(出エジプト17・1-7参照) 主がモーセを遣わして民を救おうとしていること、神は力ある神、いつくしみ深い神であることを疑ったのです。その結果、イスラエルは安息に入るためには40年間の償いのときを課せられるにいたったのでした。
悪魔は詩篇の言葉(本日の答唱詩編)を使ってイエスを誘惑しました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは同じく申命記の言葉、「あなたの神である主を試してはならない」をもって悪魔の誘惑を退けました。
イエスは昇天に際して、「わたしは世の終わりまであなた方とともにいる」と言われました。もし、現代を生きるわたしたちが、「主はどこにいるのか」という思いを抱き、主が守ってくれるかどうかの試みをするならば、それはまさにイスラエルの民が荒れ野で侵した「あなたの神たる主を試みる」という不信仰に他ならないことになってしまいます。主を信じ、信頼しているなら試みるはずではありません。
「主の祈り」の「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお守りください」という言葉は不信仰への誘惑からわたしたちを守ってください、という思いが込められた祈りでもあります。不信仰への誘惑は、悪の霊から来るのであり、また、わたしたちの欲望から生まれるのです。
「ベネディクト十六世教皇は、就任式のミサで、「現代の荒れ野」ということを言われました。首都圏に生きるわたしたちは、まさに「現代の荒れ野」のなかで生活しています。それは、快適で便利な生活かもしれませんが、精神的・霊的には生きづらい環境ではないでしょうか。寂しく、空しく、悲しい思いを抱えている人の少なくはありません。そこに悪魔の誘惑が忍び込んできます。
そのような状況にあって、わたしたちの本郷教会は、東京における「現代の荒れ野のオアシスであり、心の泉でありたい」と願っています。
第二朗読、ローマ書は、「口でイエスは主であると公に言い表し、こころで神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ10・9)と述べ、信仰告白の重要さを強調されています。きょう、洗礼志願式をうけるAさん、あなたは、いま「使徒信条」を唱えて信仰告白をしようとしています。生涯にわたり、この信仰告白を固く保ち、守り、強め、そして、その信仰を多くの人に宣べ伝え、あかししてください。

岡田武夫名誉大司教説教集ブログより転載しています。
http://tsurumai.cocolog-nifty.com/blog/