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イエスの福音への招き

2019年03月03日

年間第6主日 2019年2月17日 

聖書朗読箇所
第一朗読 エレミヤ 17・5-8
第二朗読 一コリント 15・12,16-20
福音朗読 ルカ 6・17,20-26

岡田武夫名誉大司教(本郷教会協力司祭)

(説教)
きょうのイエスの言葉を、わたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか。
しばしば、イエスの言葉は、わたしたちの通常考えていることとは異なっております。むしろ、反対であると言ってもよいかもしれません。
「貧しい人々は幸いであり、富んでいる人々は不幸である」と言われた。普通、わたしたちはそのような思いは持っているでしょうか。
「幸い」という言葉は、「祝福あれ」という意味であります。忠実に訳すと「祝福されている、貧しいあなたがたは。神の国はあなたがたのものである」となります。イエスの周りに集まった人々は、貧しい人々でありました。
大勢の群衆が、イエスの周りに押し寄せて来た。病気の人、体の不自由な人、あるいは、汚れた霊に取りつかれた人々などであります。
マタイによる福音では、いわゆる「山上の説教」の中で、「幸い、霊において貧しいあなたがたは」という言葉で始まる八箇条、昔の言い方で言えば「真福八端」が述べられている。ルカによる福音のほうは、「幸い、貧しいあなたがたは」で始まる四箇条の祝福、そして、「不幸であれ」で始まる四箇条が続きます。「不幸であれ」と訳されていますが、忠実に訳すと、「災いあれ」と訳すことができるそうであります。

さて、どうして貧しい人々は祝福されているのでしょうか。貧しい人々とは、どんな人を指しているのでしょうか。旧約聖書から新約聖書を通して聖書の流れを見ますと、聖書の世界では、孤児、やもめ、寄留の外国人が、貧しい人の代表であります。さらに、マタイによる福音25章を思い出すとよいかもしれない。人間が生活する上で最も基本的に必要なものを欠く人々、あるいは、食べるものが無い、飢え渇き、そして着るものも無い、寝るところも無い、病気である、あるいは、自由を拘束されて牢につながれている人々、そういう人は、最も小さい人々だとイエスは言っています。
考えるに、社会の中で、小さい人々とは、自分を守りうる術は持たない人、自分を説明したり、自分の意見を述べて理解してもらう力が弱い人、ましてや、人を動かしたり、人を支配したりすることなど考えられない、人から無視され、軽んじられ、疎んじられ、蔑まれている、そういう人々が貧しい人、小さくされた人々ではないでしょうか。

フランシスコ教皇様が尊敬してご自分の教皇名にいただいている「聖フランシスコ」は、貧しい人を生きることによって、主イエス・キリストに最もよく倣った聖人であると言われています。
「貧しさ」の中に、もちろんまず経済的に貧しいということがありますが、社会の中で、人との関係の中での貧しさがあります。人がより小さい存在であるときその人は貧しい人であります。「Powerless」な人、力のない人です。そして、自分の生活を建て、守り、そして、より良くするためのいろいろな所有物が無い。何も自分のものが無い、最低の物も事欠く。さらに、社会の中で自分がだれであるかというものを認めてもらうための体面と言いましょうか、地位と言いましょうか、名誉と言いましょうか、そういうものが無い。

ところで、それでは「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」(ルカ 6・21、聖書 聖書協会共同訳)とさえ言われていますがどういうことでしょうか。この際、ご一緒に考え、黙想したいと思います。

わたしたちが信じる福音は「神の国」の福音と言われています。「神の国」は神が王として支配すること。わたしたちは「神の国」の福音を受けた、神様の恵みを受け、神様に従い、そして、神にのみ、全てを委ねるべき生き方を選んだ。しかし、なかなかそうはできていない。自分の力で、自分の小さな面目を守り、そして、自分の周りを治めようとしているのではないか。

きょうの第一・第二朗読を振り返りますと、「貧しい人は幸い」を理解するために参考になるように思われます。
エレミヤの預言で言われています。
「祝福されよ、主を信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる」
貧しい人々は祝福された人々です。神にのみ信頼し、神にだけより頼む人々です。お金の力とか、名誉とか、対面とか、持ち物とか、そのようなものを一生懸命求めて幸福であろうとする人は「災いだ」と言われてしまうのですね。

わたくしは自分自身、このイエスの教えから遠い自分であると思います。しかし、そのような自分のために、イエスは十字架にかかってくださった。そして、死者の中からの「初穂として」復活し、わたしたちに復活の命を与えてくださいます。わたしたちがどんなものであれ、イエスが説く あるべき姿からは遠いものであっても、それを自分で認めて、それでもイエスに寄り添って歩もうとする者には、無償で復活の恵みを与えてくださるのである、と信じます。

 「聖書 聖書協会共同訳」では「災いあれ」田川健三訳では「禍あれ」となっている。

岡田武夫名誉大司教説教集ブログより転載しています。

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