本郷教会について

教会の歩み

ペトロ・レイ大司教は、1923年の関東大震災で被害を受けた小教区の聖堂再建のため、多大の力を注いだ。応急の仮聖堂は次第に新築の聖堂に変わっていったが、同時に、新しい小教区設立の必要にも迫られ、築地の土地を分譲して、本郷、高円寺、大森、麹町に土地を購入した。

本郷には、1927年3月29日、本郷上富士前町にあった旧華族の住居をそのまま、土地と共に購入した。レイ大司教は、将来の日本は学生に負うところが大きいと考え、学生の多い本郷に土地を物色したのである。屋敷は建物の一部を改造して聖堂、司祭館、信徒館、集会所としたが、レイ大司教自ら手弁当で関口台から本郷に通い、改造の指図をした。
本郷教会は1927年6月1日、東京府知事の教会設立正式許可をもって出発し、同年12月18日、聖ペトロの名のもとに誕生した。築地、神田、浅草、本所、麻布、関口についで東京市内、7番目の教会である。レイ大司教は関口台の司教館から本郷に移り、誕生したばかりの本郷教会の司牧にあたった。

シャンボン大司教が東京大司教として派遣されると、レイ大司教は正式に本郷教会の主任となった。昭和初期の本郷教会の雰囲気は、主任司祭を中心に一致し、祈りを大切にして、家族ぐるみで交わり、明るく暖かいものであった。また、信者の中に田中耕太郎氏をはじめ、大学関係者が多く、かれらを取り囲む学生たちで、若さと教養あふれる雰囲気があった。

本郷教会は1937年まで、パリミッション会の司教、神父が交替で司牧にあたっていた。しかし、日中戦争が始まると外国人に対する日本の世相が険悪となった。教会が日本人によって運営できるようにシャンボン大司教に代わって土井大司教が邦人で 初めての大司教となった。本郷の教会の主任もパリミッション会から、邦人司祭へと移行していった。第二次世界大戦下の本郷教会は、特別警察官や憲兵の取調べを受けながらも、落ちついた雰囲気の中でみな一致し、祈りと家庭的交わりを保ち、絶えず宣教活動に励んでいた。

1945年4月14日、東京大空襲によって、由緒ある武家屋敷の面影を残した日本家屋の聖堂、司祭館その他すべては灰塵に帰した。信者の家庭も多くの被害を受けたが、互いに助け合い励まし合いながら、聖堂の再建に努力した。

1996年6月23日に聖堂、司祭館、信徒会館が再建された。聖堂は3階で、本郷通りに面している。レイ東京大司教の名をとったレイ・ホールは、着席100人立食200人収容の本格的なホールで、各方面の講座や会合が開かれ、また、聖堂は繊細な音響効果に優れた音楽ホールで、各種コンサートなどが開かれている。聖堂には聴覚障がい者のためのループがある。都心に位置し、交通の便の良い本郷教会が、人々の必要に応える開かれた教会として歩みを進めて行きたい。